高性能電車の出現

高性能電車の出現

日本では1953年以降、欧米からの新技術移入や国内メーカーの技術開発に伴い、電車の高性能化の動きが始まった。
この過程で、振動を抑制し、乗り心地改善と高速運転に資する「カルダン駆動方式」と高速対応の新型台車、床面シャーシだけでなく側板や天井にも応力を分散させた「全金属製軽量車体」、全車両にモーターを搭載して加速力を高める「全電動車方式」、反応速度が速い上に取り扱いが容易な「電磁直通ブレーキ機構」、制御装置1台を2両の電動車で共用して軽量化やコストダウンを実現する「1C8M方式(MM'ユニット方式)」など、それ以前の電車とは一線を画する重要な革新的技術が、1953年からわずか数年の間に実用化されて普及した。
この結果、高速性能・加減速性能に優れ、しかも居住性の良い「新性能電車」が、1954年以降大手私鉄を中心に続々と出現して、大きな技術的成功を収めた。
国鉄もこの潮流に乗って高性能電車の開発に取り組み、1957年に新型通勤電車モハ90系(後の101系)を完成させる。
小田急ロマンスカー3000形SE同年に小田急電鉄が完成させた低重心・連接構造の流線型特急電車3000形「SE車」は、アメリカで1941年に開発された高性能連接電車「エレクトロライナー」に影響を受けた設計で、最高速度145km/hを目指した野心作であった。
これに着目した国鉄は、高速走行時の特性に関する研究を目的に、小田急からSE車を借り入れ、1957年9月に東海道本線で速度試験を行った。
結果SE車は計画通りの145km/hに到達し、当時の狭軌鉄道における世界速度記録を達成した。
続いて国鉄はモハ90系通勤電車をギア比変更などで高速化改造、空気抵抗の面で不利な形態ながら135km/hの好記録を達成した。
これらの実績を踏まえて、1958年にはモハ90系の技術を応用し、東海道本線特急「こだま号」用に国鉄初の特急形電車モハ20系(後の151系)が開発された。
流線型の軽量・低重心な車体は冷暖房完備で、空気バネ台車も装備し、スピードと快適な乗り心地を両立させて、動力集中方式の客車列車を完全に凌駕した。
翌1959年7月には、東海道本線での速度試験で最高速度163km/hに達し、小田急SE車の速度記録を更新した。
これらの電車における顕著な成績は、動力分散方式の資質を実証し、ひいては新幹線車両に電車を用いる事への強力な裏付けとなった。
また1955年から国鉄は交流電化方式の実用化に独自に取り組み、1957年の北陸本線を皮切りに、地方線区での交流電化を開始していた。
これ自体は従来の直流電化に比べ、地上設備コストが低いと考えられたことによるものであったが、後に新幹線の電化システムに応用されることになる。
超高速の電気鉄道においては大量の電力消費が生じ、これに伴って架線から効率よく集電するには、従来から用いられて来た1,500Vの直流電源より、大電力を長距離送電できる高圧交流電源を用いる方が適していたのである(日本の鉄道の交流電化方式は在来線20kV、新幹線25kVで、電圧だけでも直流電化路線の10倍以上のレベルである)。

新幹線建設へ

新幹線建設へ

これに先立ち、戦後の復興と共に鉄道及び道路輸送の需要が増大すると、当時の日本における最重要幹線であった東海道本線の貨客輸送能力は、ほぼ限界に達していた。
1956年に東海道本線の全線電化が完成するが、需要の増加には焼け石に水であった。
1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至とし、現在線以外の線路増設が必要であると答申した。
実際の手法として様々の案が出されたが、基本的に以下の3案のいずれかが選択されることになった。
現在線に沿って線路を増設、複々線とする。
別ルートで狭軌新線を建設する。
別ルートで広軌新線を建設する。
東海道の線増計画は、従来の常道であれば複々線案が採られたところであった。
しかし、十河ら国鉄幹部は将来の発展性を視野に入れ、あえて困難の多い広軌新線建設を決定したのである。
それは戦前の弾丸列車計画を、戦後の技術革新の下で、改めて実現しようとする超高速列車計画であった。
同年5月25日には鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)が、広軌新線ならば東京 - 大阪間の3時間運転は技術的に可能であるという報告を創立50周年記念講演会で述べた。
十河はその話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて技術研究所員に詳細を話させたという。
当時欧米では、将来の大量輸送手段として航空機と高速道路網による高速輸送が有望視され、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れのものだという見解が広まっていた。
日本でもこれを範としようとする向きが一般的であり、在来線とは別規格の高速新線を建設するという計画は、国鉄内部でさえも疑問視する者が多かった。
鉄道ファンでもある作家の阿川弘之ですら、戦艦大和(大和型戦艦)・万里の長城・ピラミッドが「世界三大馬鹿」であり、この時期に莫大な投資をして新幹線を造れば「第2の戦艦大和」となって世界の物笑いの種になると批判した(後に阿川は新幹線が世界の鉄道斜陽論を覆すに至るまでの成功を収めたのを見て、十河の後を継いで国鉄総裁を務めた石田禮助との対談において、自らの不明を悔やむ発言をしている)。
そのような厳しい状況下で、十河と島は東海道に新たな大規模高速輸送用の鉄道路線(新幹線)を実現すべく政治的活動(十河が担当)と、技術的プロジェクト(島らが担当)を続けた。
技術的裏付けの下、1958年に建設計画が承認され、翌1959年4月20日に起工式が行われた。
総工費は当初予定から修正され、3,800億円にまで膨らんだ。
元々十河などが国会内での承認を得るために安く見積もっていたこと、さらには新幹線建設に集中するために地方路線建設の陳情を蹴っていた事で国会議員の不興を買っていた事もあって、後には国会で責任問題に発展した。
新幹線開業前に責任を取る形で十河は国鉄総裁を退任し、島も国鉄を退職する事になる。
1961年5月1日に国鉄はこのプロジェクトに対し、世界銀行から8,000万ドル(当時は1ドル=360円の固定相場制)の融資を受けたが、1964年までに完成させるという厳しい条件が付けられた(この融資は1981年に返済が完了した)。
この融資を受けたことで、新幹線プロジェクトは国内事情によって中断することは許されなくなった。
その建設に関しては前述の通り、戦前の「弾丸列車計画」の際に開削されたトンネルや、買収された用地の多くが活用された。
5年という短期間で完成したのは、この時の用地買収及び工事があったからだともいわれている。
また大阪府・京都府内では、完成した新幹線の線路を高架工事中の仮線として用いて、暫定的に阪急京都本線の電車を走らせていたこともあった(→新幹線の線路を先に走った阪急電車)。

鴨宮モデル線区

1962年には神奈川県小田原市近郊に鴨宮モデル線区(小田急線高座渋谷駅付近 - 東海道線鴨宮付近)が完成した。
ここが試験地域に選ばれた理由は以下の通りである。
戦前の弾丸列車構想に際してすでに用地を取得しており、早い時期に着工する事が可能である。
直線・カーブ・トンネル・鉄橋と、線形や地上設備のシチュエーションが一通り揃っており、データ収集が容易である。
鴨宮付近では東海道本線と隣接しており、車両・資材などの搬入に便利である。
鉄道技術研究所からも近く、問題が発生した時も対処が容易である。
ここで2編成の試作電車「1000形」が走行テストを繰り返した。
2両編成の「A編成」(1001・1002)と、4両編成の「B編成」(1003 - 1006)が製造され、台車や車内設備、窓形状などに差異を付けて比較材料としている。
試験中の1963年3月20日、1000形B編成は256km/hの国内速度記録を達成している。
鴨宮モデル線区での研究は、初代新幹線電車となる0系や、線路設備の開発に活かされる事になった。
しかし、この鴨宮モデル線区にはある欠点があった。
相模湾に近く、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データは十分に得られなかったのである。
まれに降雪があり、若干の積雪が観測された際も、試運転の開始時には雪が溶けてしまい、テストにならなかったため、ジャガイモを線路の上に置いて、車体側のスカートの降雪時の耐雪シミュレーションのテストを行ったという記録が残っている。
東海道新幹線の名古屋 - 新大阪間経路は、当初計画した鈴鹿山脈経由ルートが費用や技術、工期の制約から断念され、東海道本線同様に関ヶ原を経由するルートに変更されていた。
関ヶ原周辺は谷間で標高も高く、冬期には激しい降雪のある地域でもある。
このような区間を冬期に高速列車で通過する状況の研究が、開業前には十分に行えなかった。
このことは、1964年の開業後初めての冬期に関ヶ原での着雪による車両故障を頻発させる原因となった。
この鴨宮モデル線区は、開業後も設備が無駄にならないよう、建設中の路線の一部を先行完成させて利用する手法が採られた。
このため、東海道新幹線開業に当たっては、その一部に組み込まれている(新横浜 - 小田原間の一部)。
この手法は後続の東北新幹線の小山実験線や、リニア山梨実験線にも踏襲されている。
小山実験線には実際に駅施設も設けられ、後に小山駅となった。
またテストに使われた試作電車は、東海道新幹線開業後に改造を受けた。
A編成は救援車941形に、B編成は電気軌道総合試験車922-0形となり、それぞれ役立てられる事になる。
941形は全く活躍することなく廃車となったが、922-0はその後0系を元とした「ドクターイエロー」が登場するまで生き永らえた。

鴨宮モデル線区

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