戦前における高速鉄道

戦前における高速鉄道

日本の鉄道は明治時代の草創期にコストの面から狭軌を採用したため、その規格の低さに制約を受け、欧米の鉄道のような高速運転とは無縁であった。
最高速度は1910年代から1950年代まで100km/h以下に留まっていた。
そこで標準軌に改軌する提案も、明治から大正にかけて何度か出されていたが、政争や予算問題などから結局実現しなかった(日本の改軌論争も参照)。
また1910年代には、東京 - 大阪間に電車による高速新路線「日本電気鉄道」を敷設する計画が民間から出されたが、国の許可するところとならず、実現には至っていない。
日本における現実的な高速列車開発は、日本の勢力下に在った満州(現在の中国東北部)を縦断する南満州鉄道(満鉄)に始まる。
同社は日本の資本と技術により運営されており、ほとんどの幹部・技術者が日本人で、実質的に日本の鉄道と言っても過言ではない。
当時の満鉄は電化以前の鉄道で蒸気機関車牽引であったが、1,435mmの国際標準軌(日本では広軌と称した)を用いた高規格路線であり、保守的な日本内地の鉄道省とは一線を画した先進的な試みを早くから行っていた。
1934年、満鉄は自社設計によって当時の欧米の潮流に互した流線形蒸気機関車「パシナ形」を開発、これに新開発の流線形客車編成(全車冷暖房完備)を組み合わせ、大連 - 新京(現・長春)間701kmに特急「あじあ」号を運転開始した。
この列車は最高速度120km/h以上を誇り、最高95km/hに留まる鉄道省の列車を遙かに凌駕した。
所要8時間30分、表定速度は82km/hに達した。
とは言え、当時の欧米の鉄道はさらに上を行っていた。
例えばイギリスの London and North Eastern Railway がロンドン - エディンバラ間に運転していた特急列車「フライング・スコッツマン」は、蒸気機関車牽引で最高速度160km/h以上での営業運転を行っており、ドイツ国鉄では気動車列車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が150km/h以上の高速で営業運転していた。
さらにアメリカの私鉄各社には、定期運転列車を牽引して優に180km/hに達する蒸気機関車さえ存在していたのである。
120km/h運転そのものは、当時の欧米の主要幹線では標準的な水準であり、「あじあ」号の水準はそれに達したものでしかなかった(冷房装置を含む空調設備の完備のみは、世界の最先端であった)。
この技術が、日本本土の鉄道に直接活かされる事はなかった。
しかし満鉄関係者には鉄道技術者の島安次郎がおり、その長男の島秀雄と共に後述する「弾丸列車計画」を推し進める事になる。
なお前述した日本電気鉄道のように、民間による大規模な都市間電車は実現しなかったが、中近距離の都市間電車に関しては、新京阪鉄道や阪神急行電鉄、参宮急行電鉄、阪和電気鉄道のように、アメリカのインターアーバンの技術を取り入れるなどして、実現させた所もあった。
これら路線の多くは、既存の鉄道線と競合する形で敷設されたものとなっており、「(既存の並行線よりも)高規格な路線において、高速運転を行うこと」がその建設目的となっていた。
「新しい高規格線を敷く」という意味では、新幹線に通じる所もある。
その中でも、参宮急行電鉄が転じた関西急行鉄道は途中での乗り換え(伊勢中川駅)こそあるものの、大阪と名古屋という中距離の2大都市間(当時の営業キロで、189.5km)を電車で結ぶことに成功しており、また阪和電気鉄道は「あじあ」号の水準に匹敵する、表定速度81.6km/hの「超特急」を狭軌路線で運転していた。
これらの私鉄で用いられた電車は、当然だがハイレベルな仕様の車両が多く(新京阪デイ100形、参急2200系、阪和モヨ100形など)、後述する国鉄における動力分散方式の開発にも、いくらか影響を与えている。

弾丸列車計画

弾丸列車計画

1930年代に入ると満州事変・日中戦争などによる日本から中国へ向かう輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大した。
この頃鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、主要幹線の輸送力強化についての検討が行われた。
ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」であった。
これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 下関間を9時間で結ぶ事を計画したものであった。
この計画は翌1940年9月に承認され、建設工事が始められる事になった。
既にこの時点で、新しい幹線を敷設するという事から「新幹線」や「広軌新線」という呼称を内部関係者は用いていた。
「新幹線」の語はここが起源であるとされている。
また将来的には対馬海峡に海底トンネルを建設して朝鮮半島へ直通、釜山から奉天(現:瀋陽)を通り満州国の首都新京(現:長春)、さらには北京・昭南(現:シンガポール)に至る、という構想も一部では描かれていた。
当時の鉄道はまだ機関車が客車を牽く方式が一般的で、「弾丸列車」も電気機関車と蒸気機関車を併用する方式で計画された。
1941年の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、日本坂トンネル(後に新幹線に利用)などの工事が進展したが、最終的には戦況の悪化で頓挫した。
しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられた。
特に、土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で相当な区間において終わっていた事は、新幹線建設をスムーズにした。
この弾丸列車計画の技師たちが居住した地として、静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が、東海道新幹線の開業前から存在した。

動力分散化への流れ

太平洋戦争終結後数年間、鉄道をも含めて混乱の極みにあった日本も、1950年の朝鮮戦争以降本格的に復興し、鉄道の都市間輸送需要も急激に伸張していった。
旧日本軍の研究部門や軍需企業に所属し、戦後その職を失ったり技術を持て余していた優秀な人材を、昭和20年代の国鉄が多数獲得した事は見逃せない事実である。
高速走行中の車両の振動や、空力特性の研究は、旧軍出身技術者の存在によって大きく進展した。
1955年に国鉄総裁に就任した十河信二は、国鉄出身の卓越した技術者であるが一時民間に在った島秀雄を再度招聘し、国鉄技師長に就任させた。
彼らを中心とする人々が、その後新幹線計画を推進する事になる。
地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、機関車が客車を牽く「動力集中方式」よりも、電車・気動車のように編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方式」の方が適している。
カーブや勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、また線路への負担が小さいため、脆弱な地盤に敷かれた線路でも高速を出せるからである。
当時は蒸気機関車主流の時代であり、また国際的に見ても主流であることから、国鉄部内でも動力集中式に固執する者が多かったが、島秀雄は例外的に戦前から動力分散方式の特性を理解し、研究していた。
島は1951年に事情によって国鉄を離れていたが、彼の指揮の下で1950年に開発された東海道線普通列車用の80系電車は、短距離向けと見られていた電車が、長距離運転にも優れた特性を発揮するという事実を実証し、その後国鉄の在来線に電車・気動車の普及を進める原動力となった。
島の復帰以降、国鉄の動力分散化の流れはさらに加速する。

動力分散化への流れ

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